妻が発達障害の話を妻が書いてみた

妻がASD当事者の夫婦な日々をつづってます。

【ASD成長記】出生〜幼少期

コメントをはてなユーザーのみにしてましたが、解除しました。ただし私の承認が必要です。

 

自分では「出る杭打たれたASD」と思ってます。実際、一昨年末検査受けた時の臨床心理士さんのコメントにも近いことが書かれてました。

きっかけは35歳の引っ越しの時に小学1年生の通信簿が見つかり、当時の主治医(15年間通って最後5年間交代のなかった若造医師)に見せて初めてアスペルガー、と診断されました。

なので振り返ればあれやらこれやら、心当たりがあることが…:(;゙゚'ω゚'):

 

小出しに、でも順々に語っていこうと思います。カテゴリーでまとめて読めるように。

 

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1974年7月23日、東京郊外のまだ新しかった巨大団地の片隅の小さな産婦人科で生まれました。

この日は暦で「大暑」一年中で1番暑い日です。本当に暑い日だったそうです。

父方の祖母(70歳超え)が23番目の末孫の誕生に、1番歳の近い従兄(実兄と同じ歳)と一緒に、人生のスタートはまずまずじゃないですか。

 

この暑さがまずかったか、他の原因もあったか、小児アトピーが発覚します。

真夏生まれだからまずあせも関係は大変でした、バス必須の皮膚科にお世話になりました。

3歳以前の話は両親からあまり聞かないです、おそらく小児アトピー以外は普通と思った?子供だったようで…。

後から母から聞いた話だと、土遊びダメ、砂場遊びダメ、うっかり触らせたらぶわーっと湿疹ができちゃう…ので、砂場遊びをした覚えがありません。

小さいうちにコミュ障と気づけなかったのは小児アトピーが原因でしょうね…(´・ω・`;)

 

不幸中の幸い?だったのが、水遊びは大好きでした。「ゆいは水があるところすぐ飛び込んでいく」よく言われました。幼稚園も土遊びダメ×だからごっこ遊びやらなくて済んだのも…。

 

幼稚園は徒歩圏内、年少年長合わせて4クラスの小さな幼稚園。絵と歌ばかりでした。ひらがなの練習した覚えはありません。読めはしたんでしょうが。

年少時代は半分は皮膚科通いでお休みか早退。そりゃコミュ障気づかないようちの母。

まともに通い出すのは年長からですが…

 

給食食べられずに1人残されたのとしょっちゅうおもらししてたのしか覚えてない(-ω-;)

今では信じられないほど食が細く、全部食べないと外に行っちゃダメ!て時代でした。

ここの給食、デザートがパイナップルオンリーでした。泣きながら食べてたの覚えてます。

もうすぐ46歳になる今でもパイナップルだけは絶対食べません

後は先生に呆れられながら洋服を替えさせられ…そこはっきり覚えてませんが、トイレ行けなかったんですかね?

 

後々も影響しますが、絵は他の子と違う描き方しかしてませんでした。

クリスマスの、どこの王様のパーティーだよ‼︎と思うほど細かく人を描いた絵が園外のコンクールで入賞しました。多分他の子は家族パーティーとかの絵だったんだろうと思います。

 

後はずっとうちでは鉛筆…クレヨンとかも手が荒れますから…で何かしら絵を描いてました。チラシの後ろとかに。

卒園する時、母体が絵画教室だったのもあり、園長に絵の勉強を勧められましたが、私が水好きでスイミングに通うことが決まってた、経済的にふたつ習い事は無理、とのことで断りました。もし絵を選んでたらASD的に少しはまともだった…かも?

 

気が向いた時に波乱万丈な小学生編。

 

※1500字近くを100字削減